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ドジャースのレジェンドに見る、静かな強さ—— 大舞台の祈りから学んだこと

WBC2026の先行抽選。
結果は落選だったけれど、不思議と気持ちは沈まなかったです。

むしろ自分が野球観戦の抽選に応募するなんて、半年前には想像もしなかったから笑ってしまうほど。

けれど今年、MLBを観る中で、
ひとりの選手を通して、
“大きな舞台に立つ人の生き方”に触れることになりました。

日本では、
ショウヘイほど名前を聞く選手ではなかったので、
その人は誰か、と知る人に尋ねたら、
ドジャースのレジェンド左腕だといいます。

目次

テレビ越しに感じた異質さ

MLBを観るようになってから、
どうしても目が離せない投手がひとりいました。

選手の名は、クレイトン・カーショウ。

彼のピッチングには、どこか“静かな気配”がありました。
力んでいるようには見えないのに、
気づくと打者はもう追い込まれている。

まるで、音を立てずに場を支配していくような、不思議な感覚。
テレビ越しでも、その空気が伝わってきました。

カーショウの投げるボールは、
打者の手元で大きく、鋭く曲がる。
その変化はほとんど見極めができないほどで、
記事にも「球種を読みづらい」と書かれていて、
それでようやく腑に落ちたんです。

あれほど自然なのに、
あれほど淡々としているのに、
どうして打者は“わからない”のだろう。

その“静けさの裏側”にある強さに、
惹きつけられる何かがありました。

数字では測れない存在感

けれど、カーショウのすごさは
投げているときだけではなかったです。

むしろ、
投げていないときの姿にこそ、
“強さの本質”があるように感じました。

試合が劣勢に傾き、
球場の空気が少し重くなる瞬間。

普通なら肩を落としてしまいそうな場面でも、
カーショウはベンチの前列から、
誰よりも早く声を出し、チームを励ますタイプの選手でした。

ただ見ているだけではない。
まるで“自分がプレーしているかのように”
全身で仲間を応援している。

自分が主役の場面でもないのに、
心を向け、声を出し、手を叩き、
最後までチームに共にしていました。

主役でないときこそ、
その人の本当の姿が滲み出る。

そこに私は、
イエス様の“主人の精神”が重なって見えたんです。

レジェンドと呼ばれる理由

カーショウは、2025年までの18年間、
ロサンゼルス・ドジャース一筋の投手。

大きな声で誇示するわけでもなく、
派手な振る舞いをするわけでもない。

それでも、
彼が“そこにいてくれること”そのものが、
チームにとって確かな支えに見えました。

成績やタイトルだけでは語れない重み。
マウンドに立っているときも、
ベンチに座っているときも、

ただその場にいるだけで、
空気の流れが少し整うような存在感を持っていた。

それは、長いキャリアが生んだ余裕というより、
もっと静かで、もっと深い何か——
存在そのものが放つ“重さ”のようなもの。

“レジェンド”と呼ばれる理由の根っこにあるものだと思いました。

大舞台の祈り

では、どうしてカーショウは、
“そこにいるだけで場が整うような人”なのだろう。

その答えを、
後に知った彼の言葉から垣間見るようになりました。

“Before every game, I pray.
Not that I’ll win, but that I’ll compete with integrity and honor God.”

「試合前には必ず祈ります。勝つためではなく、誠実にプレーし、神様を敬うために。」

— Clayton Kershaw, Sports Spectrum

“Baseball is what I do, not who I am.
My identity is in Christ.”

「野球は私がすること。私の中心ではありません。私のアイデンティティはキリストの中にあります。」

— Clayton Kershaw, Sports Spectrum

この言葉を知ったとき、
彼の“存在感”の源が静かに腑に落ちました。

カーショウは、
自分の力を前に出して立っているのではなく、
“より大きなもの”に身を委ねて立っている人だった。

だからこそ、
力んでいなくても、
彼がそこにいるだけで空気が変わるのだと思ったのです。

委ねて立つということ

カーショウの姿を見て、
私はひとつのことを静かに教えられた気がしました。

大きな舞台に立つ人は、
自分の力で大きく見せようとしているのではない。
もっと大きなものに委ねているから、大きく立てる。

彼の存在感は、
“自分を中心に置かない生き方”から滲み出ていると感じました。

自分が主役でない場面でも、
心を燃やして、誰かのために立つ人。
声を張らなくても、
そこにいるだけで場が整ってしまうような人。

そんな人に出会うとき、
私は“強さ”と同時に“深さ”を見る。

カーショウが教えてくれたのは、
技術でも、勝ち方というhow toでもなく、
“どう存在するか”という生き方そのものでした。

MLBに息づく信仰文化

カーショウの存在感を知ってから、
改めてMLBの文化にも目を向けてみました。

アメリカの球団には、
チャプレン(専属牧師)が帯同し、
選手が祈りや聖書会を持つ仕組みが広く根づいている。
信仰は“特別なもの”というより、
静かに生活の一部として受け入れられていたことを知るようになりました。

ドジャースもその例外ではなく、
試合前にカメラに映らない所で短く祈る選手、
心を整えるように聖書を読む選手がいる。
祈りが“勝つための儀式”ではなく、
自分の中心を整える時間として置かれている空気があったのです。

祈りを生活の真ん中に置きながら、
大舞台にも、誰かのための場面にも立つ。

日本ではあまり見られない日常風景を知ったとき、
価値観が少し開くような感覚がありました。

結果は委ねて、でも挑戦する

カーショウを見ていて気づいたのは、
大きな舞台に立つ人ほど、
結果よりも“どう存在するか”を大切にしているということでした。

誰かのために立ち、
委ねながら生きること。
そこにこそ、静かな強さが宿る。

そう思うと、
WBCの抽選に落ちたことさえ、
なぜかやさしく受け入れられました。

結果は神様に委ねて、
私は私の場所で整えていけばいいのだと。

そして思い返すと、
11月のあの日、成田空港の搭乗口でドジャース戦を観戦しながら
この経緯を話し終えたちょうどその瞬間に、
ドジャースがホームランを打った。

偶然かもしれない。
でも私はこう感じました。あれも小さな“応答”だったと。

……とはいえ、
次の抽選にはもちろん申し込みます。笑

今度こそ、球場で祈るように応援できますように。

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