自分の中で捜すべきものを捜しなさい。
今週聞いた御言葉で印象的なひと言。
私が捜すべきものは何かを考えたとき、予想外にも「神様の心」と浮かんだので、聖書を読みながら捜してみました。
ちょうど読んでいた箇所は、神様から甚だしく背を向けて離れたイスラエルの民たちに裁くと話されたエゼキエル書。
さすがにここまで来ると、例えば師弟関係で言うなら直ちに破門されて一生の間、関係が断ってしまうのがセオリーなはずが、神様はそうしないと書いてあって衝撃的でした。
あなたがたの心にあること、すなわち『われわれは異邦人のようになり、国々のもろもろのやからのようになって、木や石を拝もう』との考えは決して成就しない。
主なる神は言われる、わたしは生きている、わたしは必ず強い手と伸べた腕と注がれた憤りとをもって、あなたがたを治める。
エゼキエル書20:32-33
その日の分を読み終えて、どう神様に話しかけたらいいか分からなかったけれど、自然と「神様は本当にイスラエルの人を愛していたんですね」とポロッとつぶやきました。
次第に浮かんだのはイエス様。
御言葉を伝え、虐げられた人の心を解いて病に侵された人を癒される姿、それこそが神様の姿、愛の表現だったんだと分かったんです。
見た目は人間が行っているけど、根本にある思想と心情は人間ではなく神様から来たものだと。だからイエス様はキリストだと言えるのだなと改めて。
旧約時代における神様と人間は、主人としもべの関係性だったけれど、「一体どちらがしもべか分からない」ほどに神様は人間を愛されたという心情が伝わりました。
そんなこんなで、心の中で感じたことを神様に伝えてみたり、思い浮かんだ考えや伝わってくる心情を受け取って味わってみたりして過ごした数十分後、久しく開いていなかった本(御言葉)を急に開いてみたい気持ちになりました。
何気なく開いてみたページには、実は私が捜していた問題の答えになる御言葉があったのです。しかもその内容たるや、物凄く詳細に書かれていて分かりやすい…。
自分の中で捜すべきものを捜してみても、いろんなことが絡まってぼんやりしていたので、正直に言って、捜しもの自体よくわからなかったんです。
それが御言葉で絡まっていた自分の問題も明確になり、胸がすっっっっっっきりほどの答えをもらいました。
神様の心情をほんの少し分かったと仮定しても、私はたった一言なのに、神様が返してくれたのは、先生を通して伝えられた滝のようなボリュームの御言葉。
行った通りに報いる神様とは聞いていたけど、ひと言に対してひと言、ではなく、報いるスケールの大きさと懐の深さは全能者の分なのだなぁと感じるしかありませんでした。
私の心は私に尋ねなさいと主日礼拝で伝えられた今週、たくさん尋ねると共に、神様の心を受け取る”器”も十分に備えたいものです。
捜し求めなければ、毎日を神様のいない日として過ごすようになる。
23.12.4 明け方の箴言
捜し求めてこそ見つけ、会うようになる。