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チョン・ミョンソク牧師と指揮

最近、月明洞に行きました。
百合の花がそこかしこに咲いていて、香りがとても良かったです。

どこを歩いていても風に乗って届く香りと共に浮かんだ記憶は、初めて礼拝奏楽を捧げた時のこと。
もう、あの日から7年が経ちました。

月明洞を訪問して突然やってきた奏楽の機会。
迎えた主日礼拝の奏楽指揮者は、チョン・ミョンソク牧師でした。

目次

自然聖殿で捧げた主日礼拝での指揮

私にとっての奏楽デビューは、とても微弱なスタートでした。

自分が演奏するサックスとは別の楽譜が配られたため、「ド」と書かれたものを「レ」あるいは「ラ」など、読み替えて演奏しなければなりません。

今でこそ、数パターンの読み替えに慣れてきましたが、当時の私はそのような技術はありませんでした。指揮を見るどころか、まともに音を並べることすらままならなかったと思います(苦笑)

視覚では指揮を見れなかったものの、チョン牧師の指揮から伝わってくる賛美の力を楽譜越しに強く感じたこともあって、演奏は上手くできなくても、最後まで一生懸命ついて行きました。

普段なら悔しい思いを引きずっていたはずですが、そのような考えが一切なくなったのは主日の説教に見たチョン牧師の姿に目が点になったから。

当時の様子は過去記事に任せるとして、「青空奏楽」で始まった楽器の賛美は、20年以上演奏してきた中で最も下手な演奏だったけれど、1番上手く賛美できた舞台。
礼拝後には今までの音楽人生で味わったことがない、晴れやかな気持ちになりました。

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そして思ったよりも早く、1年後には再びチョン牧師の指揮で演奏する機会が訪れます。

オーケストラで見たチョン牧師の指揮

チョン牧師の指揮について「1度しかできない指揮」という言葉は何度か耳にしてました。

しかし正直、私は何度指揮を見ても、この言葉の意味が分かっていませんでした。
部分的には同じような動作に見える振り方もあるし、拍に囚われていない振り方だから、そもそも違いが分からなかったのです。

ある時の主日礼拝。
奏楽は大所帯のオーケストラだったことから、一部の人たちにマイクがつけられることに。私が担当した演奏パートは分かりやすく目立つポジションでもなかったため、マイクはありませんでした。

「神様、先生(チョン牧師)の指揮を教えてください」

分かって賛美を捧げられるようにと、神様にひと言祈って始まった主日礼拝。

チョン牧師が指揮する賛美の曲の時間が来て、奏楽席から久々に見る指揮に少しの緊張と沢山の期待をしながら、振り下ろしのタイミングに総集中しました。

前奏が始まり、歌が入って間奏が終えた後、衝撃的な瞬間を迎えます。

誰にも気づかれないようなタイミングで演奏に入るその瞬間に「ここからあなたが入りなさい」と合図をするように指揮棒が下りたのです。

楽譜的には数小節の休みの後、裏拍から入る伴奏リズムを始める瞬間に、合図の指揮棒が振り下ろされたということになりますが、演奏しながら「え」と時が止まったようでした。

通常の指揮をざっくり表現すると、表拍を振ったり、目立つメロディや特徴的な動きに対して個別の合図を出すのが一般的。目立たない伴奏系のリズムにわざわざ指揮を振るというのは見たことがありません。
おまけに私はマイクをつけていないので、大人数のオーケストラで私個人の音は、離れた距離を見てもチョン牧師に聞こえていないはず。

しかし、私は最初からずっと指揮を見て演奏していたため、指揮で合図されたその瞬間をちゃんと見ていました。

指揮の合図で始まった演奏は、1音1音に意味と心情を持った音が自然と出てくると共に、夢中になって演奏しつつも、いつの間にか泣きながら演奏していました。

「神様、先生(チョン牧師)の指揮を教えてください」

御言葉や自然万物、あるいは人を通して働かれる神様が、私の祈りを聞いてこの時チョン牧師を通して一対一の指揮をしてくださったんだと分かりました。

私たちをいつも助けるだけでなく、天地創造をした138億年前から見えるところ見えないところでたくさん労苦をされた神様なら、常識的に考えてもゆっくり御座に座って栄光を受けられるだけでもいいはずなのに。
1音1音、一人ひとりが分かっても分からなくても「一緒にやろう」と指揮で、演奏も助けて共にされるのは一体どんな心情から出てくる行いでしょうか。

同じ曲だとしてもその時々によって表現は異なります。加えてその場にいる人たちの経緯も全部分かった上で一人ひとりのために振るとしたら––。
その時1度しかできない指揮というは、本当にその通りだなと自然と認めるようになりました。

チョン牧師は自分の考えで指揮棒は振りません。神様やイエス様にたくさん相談し、完全に委ねて指揮をするからこそ、人ではなく神様を感じることができたのだとおもいます。

聖書を基に神様の愛や心情が込められた御言葉を伝えるのと同じように––。

7年で変わったこと、変わらないこと

初めての奏楽から7年、月明洞で楽器を吹いていた時のこと。

パラパラと音出ししたり、練習していると近くにいた中高生たちから「音すごくイイね!」「今度一緒に演奏しよう!」と言われて、”賛美もしてないのに何事?!”と仰天することもしばしば。

楽器で賛美をし始めたあの頃には到底考えられなかった反響の変化。

特別上手いわけでもないけど賛美によって育ててもらった音に反応してくれたのかも…と同時にうっすら感じました。

これまでどんな賛美をしてきただろうか…と振り返りながら思い出したのは、教会に通い始めた頃、誰にも言わず、神様だけ招待して開いた「神様リサイタル」。

自宅の部屋で始まった小さな賛美会は、教会にはじまり、いつしか国内外の大都市から山奥までが舞台になっていました。雪が止まない氷点下の極寒の時も、太陽が燦々(さんさん)と降り注ぐ夏の日も、雨が降っても関係なく、楽器を片手に賛美し続けた日々だったと回想しながら、私が変化したことは何だろう?と考えた末に浮かんだのは––。

“変わらない心をつくった”という一言でした。

いや、そんなに自分は強くもないぞ(笑)と内心思うわけですが、やってきたことは事実なので少し成長できたこともよしとしたいとおもいます。

 

ひたすら神様だけを見て賛美する指揮を学びながら、また新たな8年目が始まります。

みなさんも神様がくださった使命で続けるべきです。どうして努力せず、涙の苦痛を避けようとしますか。川を渡って行ってこそ理想世界です。
神様はみなさん各自に合うように仕事をくださいました。そのとおりに行なうことです。機材と道具、器具を与えたなら、その器具どおりに働いて歴史を起こすべきです。

2025.7.20主日の御言葉「穀物の実と皮、もみ殻の信仰」より
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