勤めていたコンサル企業で印象に残っている風景は「人と文房具」。
元ライターな先輩はいつも会社から支給されるノートとボールペンを、ぶっきらぼうなんだけど実は繊細サンなベテラン選手の先輩はツバメノートとモンブラン製万年筆をやはり、いつも持ち歩いていました。
文房具には持ち主の人となりー仕事の姿勢やスタンス、こだわり、その人にしかない味のようなものーがにじみ出ているようで、そんな日常風景を見るのがおもしろかったです。
ある時元ライターな先輩と会話する中、先人の知恵として教えてくれたのが「手書きで記録をすること」でした。
「何でもパソコンで記録するのはおすすめしないわ。
新しいこと、概念を習得するなら手書き。自分の手を使った方が、自分の中に入るの。
パソコンを使うときは、自分の中にあるものをアウトプットする時よ。」
当時、私は礼拝で聞く御言葉をタイピングでパソコンに記録していました。
しかし、体裁まで整えて漏らさず記録を残している割には、記憶に残っていないのが悩みだったのです。
どれくらい記憶にないかというと、まるでザルから水が落ちる勢い、つまり”ほぼゼロ”の状態。
さすがに教会の人には言えず(笑)、この「御言葉の記録」問題とにらめっこしていた時に教えてくれたのが手書きのススメでした。
「性能や用途を分かって使い分けていくことが大事なのよ。」と茶目っ気たっぷりに、しかし実力者のひと言はとても魅力的で説得力があって、私が探していた答えはこれだ!と確信した瞬間でした。
あれから5年。
礼拝で聞く御言葉を手書きにしてみたら、文章だけではなく、その場で浮かんだ図を用いながら図解をしたり、テンプレートを使って整理してみたりと、パソコン以上に記録の自由度が増したように思います。
また、教会生活を続けてくる中で、いわゆる”アイディアが降ってくる“ことが2023年から増えてきたこともあって、瞬時に記録することができる手書きに拍車がかかるようになりました。
浮かんだ構想を記録して、実践してみたことをまた書いてみると、面白いのが記録したものを見返したとき。
神様がどのように働きかけ、自分に共にしてくださったのかが分かり、リアルタイムで経験している時は分からなかった伏線と回収に気づくようにもなって感嘆することもしばしば。
結果、もっと自然と神様に感謝ができるようになりました。
手書きが好きになって続けていたら、「詩」を書くようになり、美術館に行けばそれまで自分には縁がないと思ってた「模写」をその場でするようになり、自分の変化に驚くしかなかったです。
「“手で書く”っていうのはね、私たちが思っている以上に最先端かつ高精度。自分の中にちゃんと入れることができるの」と元ライター先輩がしみじみと感じながら、嬉しそうな様子で話してくれたことを思い出します。
自分の中に入れることは、自分のものにすること。
必要性を感じて、また自分自らがやりたくて行うことが自然にできるだけでなく、自分では想像もしなかった新しいモノ、コトも始まるのかもしれません。