「人が鏡だ」という御言葉を聞きました。
聖書に登場するエゼキエルという一人の人が、民族の鏡になったといいます。
神様は人や万物を通して、「あなたもそうだ」のだと。
大きな話のようでいて、
私の中に浮かんだのは、もっと小さなことでした。
それは怠慢だったのか
先を急ぐ日々の中で、
“すべきこと”をやっとのことで、こなしていました。
そんな中、
70日以上続いた宅トレがここに来て崩れ始めたこと。
制作の初動が遅いこと。
締切前に追い込み型になること。
どこかで私は、
それを怠慢だと思っていました。
バッファも含めて事前にスケジューリングすること。
疲れて動きたくないと感じたその瞬間に、
ぐっと力を入れてもがきながらでも実践すること。
それが正しいのだと考えていた。
けれど――
礼拝後に見た音楽家のコンサートや、
オリンピック選手の姿を精密に見てみると、違いました。
喜び不足
自分の努力が足りないのではなく、
喜びが抜けていただけ。
締切に追われ、
「やらなきゃ」で動いていると、
一見ちゃんとしているように見える。
でも、それって長くは続かないよねと。
- 初動が遅くなる
- 追い込み型になる
- 形式化する
- 負担感が増える
これは怠慢のサインではなく、
燃料不足のサインでした。
作品制作に取り組んだときのこと。
切羽詰まった制作時間の中で、
私はひとつだけ決めました。
「楽しもう」と。
神様に尋ねながら進め、
浮かんだ構想を素直に形にしていきました。
すると、
思ってもみなかった作品で
想定以上でした。
あのとき、
私は“やらなきゃ”ではなく、
“やりたい”で動いていたとおもいます。
天才という姿勢
礼拝で聞いた「天才」の話も心に残ってます。
天才とは、確認して100%行なう人。
研究し、努力し、集中し、続ける人。
実際、そんな人たちを観察してみると、
共通していたのは「好き」や「好奇心」という心でした。
努力を足すことではなく、
楽しむことを足すこと。
鏡は、欠けている能力ではなく、
抜けている喜びを映していたのかもしれません。
用意された場所
そういえば最近、
思いがけない休憩が入ったんです。
帰ったらあれをして、これをして――
やることはあったはずなのに、
突然の散歩の誘い。
東京のど真ん中。
だだっ広い公園に行ってみると、
河津桜が満開でした。
いつの間にか、すぐそこまで来ていた春。
人を通して、
「一緒に楽しもう」と言われたような気がしました。
