クリスマスは、
希望が完成する日、というより、
希望がそっと置かれる日なのかもしれない。
すべてが整うわけでもなく、
物語がきれいに解決するわけでもない。
それでも、
すぐには解決しない人生の只中で、
希望は静かに始まる。
静けさの中で、音を整える
クリスマスライブ当日の朝は、
いつもより早く教会に行きました。
楽譜を書き直しては、また音源を聴き、
音符を書き足す。
もう大丈夫と思っても、
あと一回、確かめる。
「次はこれを。」
「その次は、あのようにやろう。」
ささやかだけれど、
明確なインスピレーションに反応しながら。
集中力が高まって
研ぎ澄まされているのに、
その時間が、楽しかった。
共にいる、という選択
この日の礼拝で、
「忘れたら、できなくなる」
「毎日捧げる祭壇を廃してはいけない」
という御言葉を聞きました。
それは、
何か新しい教えというより、
今の自分に向けて
はっきり差し出された
実践の指示のよう。
だから私は、
礼拝が終わってすぐに、
その御言葉を行なうことにしました。
特別な準備をしたわけではありません。
ただ、意識的に、
何度も呼びました。
感情が高まったからではなく、
共にいることを、
自分の側から選び続けるために。
神様も聖霊様も人間の目には見えない神なので、自分が生きた人としてその体になって生きてこそ忘れず実感します。毎日聖書や時代の御言葉を読んで行ない、祈り、讃美し、感謝し、愛し、毎日捧げる常供の燔祭を廃してはいけません。
2025年12月21日「1.忘れたらできなくなるから死ぬことになる 2.毎日捧げる祭壇を廃するな」より
音が鳴った瞬間
本番が始まり、
演奏しながら、
尋ね続けました。
次は、どの音を出すか。
どのようにソロを詠じるか。
今日は、どうしたいか。
演奏と同時進行のやりとりに反応しながら、
ひとつの音符は、
一瞬で過ぎ去っていきます。
答えが分かっても、
分からなくても。
尋ね続けた、そのとき。
技術や準備を超えたところで、
考えていなかった選択が、音として現れた。
ソロの直前までは分からなかった。
けれど、
最初の一音が出た瞬間、
それは、
自分のものではない音でした。
希望は、危機の中で始まった

クリスマスというと、
あたたかくて、きらきらしていて、
祝福に満ちた一日を思い浮かべる人が
多いかもしれません。
イエス様は、
確かに希望そのものだった。
でも、生まれたときの状況は、
決して希望に満ちたものではなかったです。
王の誕生を恐れた権力によって、
命が狙われ、
家族は夜のうちに
逃げなければならなかった。
希望は、
安心できる場所から
始まったのではなく、
危機のただ中で、
守られて、始まっていた。
それでも神様は、
星によって人を導き、
夢によって人を守り、
目立たない方法で、共におられた。
すべてが整ってから
希望が与えられたのではない。
希望は、
「共にいる」という
神様の意志の中で、
人知れず、でも確かに
始まっていたのだと思います。
その夜、希望が鳴った
はじまりは、
神様が人を呼んだ夜。
そして、
二千年以上の時を経て、
2025年を生きる私は、
神様を呼んだ。
それだけのことなのに、
その夜、
確かに、希望が鳴った。
光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
ヨハネによる福音書1:5
