windowsを立ち上げたらつい、見てしまう画面左下のすみっこ。
日々健気に更新し続ける「今日は何の日?」がそれとなく楽しみだったりします。
先日、この検索窓に懐かしいイラストがあって思わずクリックしたのは、世界遺産「アンコールワット」。
私が摂理に来るきっかけは、人の勧誘でも何かの集まりでもなく、クリスチャンどころか、ビンドゥー教・仏教国のカンボジアでした。
ワールドワイドに伝道できるのなんて神様しかいない…!ということで、世界を舞台にあちこち見学させながら神様が導かれた軌跡の一部をご紹介。
カンボジアについて
カンボジアは、ベトナムとタイの間にある東南アジアの国。
歴史的にいろんな経緯はあるけれど、どうやったらこんなに純朴な民族が生まれるんだろうと驚くほど、心優しい人が多いです。
何か問題が起こっても、カラッと晴れた太陽のような明るさで事に当たる軽やかさと、素直さ。
そして日本人の口に合う、とっても美味しいヘルシーごはん。(鍋がおススメ)
摂理に来る前の話なので、もちろん信仰はなかったけど、「こんな人たちを創ってくれて、神様ありがとうございます!」と寺院で祈った記憶があります。
ここで命の危険から守られた経緯もあったけど、それはまた別記事で。
アンコールワットで発見した、仏教とキリスト教の共通点
12世紀初頭、およそ30年の歳月をかけて造られた世界遺産「アンコールワット」。
春分の日と秋分の日には中央塔から朝日が昇るように設計をしたのだとか。この太陽の位置を見て人々は季節を判断したというのだから、高い技術力と知恵深い民族性を感じます。
壁にはおびただしい彫刻、レリーフが繊細に施されて建築美としても見もの。
さて、回廊から歩き回りながら、ある壁を見た瞬間、とても大きな衝撃を受けると共に、人生史上最高の発見しました。南側の東、「天国と地獄」エリアにある、”生前、嘘をついた人が地獄で悪魔に舌を引っ張られる”場面が描かれたレリーフです。
描写が怖いというより、内容が「キリスト教で言っていることと同じだ」と気づいてあまりにも衝撃でした。
建築当時はネットもない時代。その思想いいね!とか言って、教理をよそからコピペするとかもできないわけで。
民族性、価値観も違うはずなのに、一体なぜ共通しているのか、本当に不思議でした。
世界のどこかには、本屋さんに売ってない”真理”がある
前述のレリーフを見た後、私の脳裏にひとつの場面が浮かびました。
広い空間の中にある、幅の広い3つの大きな柱とその奥に見える光。
それぞれの柱には「キリスト教」「仏教」「イスラム教」と書いてあって、その奥の光の部分には「真理」という文字がありました。
私がそれを見て確信したことは、一つ、世の中には多数の宗教があるけれど、さらにその奥側には共通の”真理”という存在があること。二つ、その真理というものは本屋さんには売っていないけれど、世界のどこかには必ず「ある」ということ。
そして、私はその真理というものに会いたい、必ず見つけないといけないと感じました。
普段、私は「真理」という言葉自体使ったこともなければ、考えたこともなかったので、これは神様が働きかけたことだったのだなぁと振り返っておもいます。
神様を信じることは、海外では自然なこと
日本で宗教をもっている人を見てると、あまりハッピーに見えない印象があって、私は関わりたくないと思ってました。
しかし海外で街歩きをしてみると、そこかしこに教会だとか寺院があって、神様を信じることがとても自然に感じました。
世界を見ながら、むしろ特定の宗教がなく、信仰生活が日常ではない日本の方がスタンダードではないのかもしれないとおもったんです。
大抵この経緯を教会メンバーに話すと、「そんなこと感じる人いるんですか?!」ともの凄く驚かれます(笑)
社会人数年を経験してから摂理に来たと聞いて、珍しく感じてそう思われるんでしょうか。
社会人で聖書を学ぶというのはすごく良いです。より人生に対して切実だし、仕事という実践の上に御言葉を聞くから、聖書がどれほど理にかなっているか、「おおお!」という感動と共に、人生だけでなく仕事の答え合わせもできるから、痛快でおもしろいんです。
社会人にこそ、私は聖書をおススメしたいなってナチュラルにおもいます。
なぜ摂理を選んだのか
「本物を見つけた」
摂理でバイブルスタディを学び、初めて鄭明析牧師を目にした時に、このように感じたことを数年経った今もよく覚えています。ついに見つけたといった感じ。
音楽を長年やっていることもあって、楽器や師事する師匠、自分が目指す音楽についていつも「本物」を求めていたのでこのように思ったのかもしれません。
本物と判断する上で私が大事にしていることは、「人」そのものというよりは、その奥にある本質が現れているかどうか、大切にされているかどうかということ。
私は親が経営者なこともあってか、盲目的に人について行くことは嫌いです(笑)
音楽も奏者の自己顕示欲に興味はなく、奏者を通して見える芸術性を体感したいし、宗教も指導者ではなく、神様とイエス・キリストを知りたいし、分かって生きたい。
鄭明析牧師が「私を崇拝しなさい」と言うなら私はノー。摂理には用がないので静かに立ち去りますが、そうではないということです。
ここまで自分を出さないトップがこの世の中にいるのか、社会人経験のある人は特に驚くんじゃないでしょうか。
実践者の語りには真実さと、その奥にある本質が見えてきます。鄭明析牧師が伝える御言葉を聞いてみるといつもイエス様、神様が見え、その心情が伝わってくるからすごく良いんです。
現代社会において摂理で聞く聖書の解釈はとても理に適っていて、それでいて聖書の話しがとっても面白いし、楽しい。
人生をどう生きるかー
この根本的な問題が真理で全て解決したから摂理にいる。これが私が摂理を選んだ理由です。
自分自身の思考や生活、生み出す音楽やデザインが変わり、神様と共にすることを実感することで本当に人生が楽しくなりました。
自分ひとりで生きる生から、神様と一緒に生きる生へ。
そのことを教えてくれたのが、鄭明析牧師です。