バレーボールの試合を観戦するために、
冷静を装いつつ、内心は少し焦りながら、高速を走っていました。
「今から行っても間に合わないから、帰ろう」
そんな声に背中を押されて、
帰路に向かおうとした交差点。
左折しようと思った、その瞬間に、
ふと、「遅れてもいいから、目的地に行こう」
という感覚が立ち上がってきて、
私は右折レーンにハンドルを切りました。
到着したとき、
試合はすでに終わっていて、
主催の方のひと言だけが耳に残りました。
「相手に与えたら、自分がギフトをもらったんですよ」
普通なら選ばない選択でした。
でも、あの瞬間に受け取った感覚を頼りに動いたあと、
そこにあったのは、
間に合わなかった悔しさではなく、
なぜか、達成感と、
ほんの少しの非日常からくる新鮮さでした。
あれは何だったのだろう、と。
あとから、何度も思い返すことになります。
私の中で起きた「認識の変化」
「1.大きくなればできる 2.認識の目と心の目」
という主題で伝えられた御言葉に向き合う中で、
どんな認識の目を開けばいいか分からなかったです。
しかし、結果として私の中で一番大きく切り替わったのは、
「自分の価値の捉え方」でした。
きっかけは些細なこと。
自分が当たり前にやっていたことが、
実はとても才能あることだとフィードバックを受けた時の違和感でした。
自己認識とのギャップが大きかったです。
しかし、
この自己認識はどうやら事実ではない、
ということが分かりました。
自己否定と過小評価のフィルター越しに
自分を見ていただけだったのだと思います。
今後のキャリアを考えていたタイミングだったからこそ、
自己認識に囚われて、本当は行ける道があるのに、
自分が自分を阻んでしまうならとんでもないことだと衝撃を受けました。
「本当は自然にできていること」
「気づかないうちに身についていた感覚」
「人から言われて初めて知るような良さ」
それらが見えなくなるほど、
私は“ない前提”で自分を見ていました。
しかし、価値がなかったのではなく、
価値を見る“目”が、曇っていただけでした。
認識の目が開かれなければ、よい宝、貴重な人や作品を見ても、自分の認識どおりにしか見えず普通に見えます。認識の目と心の目を開いて悟ってはじめて、肉の目で見たときに正しく認識し、完全に見て分かります。
2025年11月30日 主日礼拝より
関係が回復すると、価値も回復する
そんなふうに認識の見え方が変わり始めてから、
私の内側には、もうひとつ静かな変化が起きていました。
それは、
「色んな感覚を持っている」自分を、
事実としてフラットに認められたこと。
ここでいう色んな感覚とは、
物事の本質だったり、
人がまだ言葉にしていない価値だったり。
けれどそれは、
かつての私にとって
「気のせいかもしれないもの」
「少し浮いてしまうもの」でもありました。
幼い頃、
「普通の人じゃない」と認識した瞬間、
反射的に手放してしまった感覚もあります。
その結果、 生活はできていても、
自分の機能はどこか眠ったままだったのだと思います。
でも今回、 他の人が感じにくい感性も、
確かに「自分の一部として存在している」と
認知できたことが、
転換を迎えるための大きなフックになりました。
私にとってこの変化は、
イエス様と自分の関係性が、
少しずつ回復していくプロセスと
ちょうど重なっていました。
だから今は、
関係が回復すると、価値の感じ方も回復していく
そう思っています。
価値は、
努力して“勝ち取る”ものというより、
誰かとの関係の中で
思い出されていくものなのかもしれません。
私はこの一週間で、
その感覚を、からだの深いところで知りました。
はじめの愛・機能が目を覚ます
最近の私は、
前よりも少しだけ、自分の感覚を信頼できるようになってきました。
何かが劇的に変わったというより、
止まっていた歯車が、
音を立てずに回り始めたような感じです。
はじめの愛も、
取り戻したというより、
「もともとここにあった」と
思い出しただけなのかもしれません。
うれしい夜

そんな一週間の終わりに、
友人と小さなホームパーティをした夜、
ひとつのギフトを受け取りました。
松ぼっくりとフェルトで作られた、
小さな羊の置物です。
それを手にしたとき、
ふと、聖書にある
「牧者は九十九匹を置いてでも、一匹の羊を探しに行く」
あの一節を思い出しました。
ずっと前に、
どこかに置いてきてしまったような自分。
その姿と、
この小さな羊が、静かに重なって見えました。
御言葉に心を注ぎながら過ごしていたこの一週間のあとで、
牧者に見つけられたような、
そんな感覚がありました。
私はこの夜、
帰ってきたのかもしれない。
喜びと、平和な夜でした。
クリスマスまで、あと16日。
御言葉を聞いて、また、自分が直接生活しながら経験し、認識の目を開かなければなりません。
今日の御言葉で認識と心の目が開かれて、初めの愛の火を点けて神様の御言葉どおりに完全に成長するみんなになることを祝福します。
2025年11月30日 主日礼拝より