正論を言う準備は、もうできていました。
たぶん言えば正しかったと思う。
頭の中では筋も通っていたし、説明だってできた。
でも、その日は送らなかった。
画面を閉じた。
別に深い意味はなくて。
こういう日、案外あると思うんです。
言おうと思えば言える。
でも、なぜか一回閉じる日。
ただその時は知らなかった。
数日後、この話が彫刻に回収されるとは。
やっぱり彫刻だった

少し胸がざわついたまま仕事をしていた頃、国展に行きました。
1階から3階までいろんな作品が並ぶ大きな展示です。
絵もあったし、写真や版画、工芸まで。
そしてやっぱり彫刻の前で足が止まりました。
ルーヴルで初めて彫刻を見た時から、なんだかずっと好きだった。
今回、長く立ち止まっていたのは池田秀俊さんの「風立ちぬ」。
正面や後ろ、台座まで色んな角度から詳しく見れるのが楽しい。
周りの空気感ですら
作品毎に変わるのが彫刻のおもしろいところ。
そして削ることで、形が出てくる。
やっていることだけ見ると、ただ減らしているだけなのに。
なのに前より、生きて見える。
なんでだろう。
その時は分からなかったです。
「あれ?」が繋がった
翌日の礼拝で、「善悪分立」の話を聞きました。
その中で出てきたのは、珍しく彫刻の話。
彫刻家は形を作っているようで、実際には違う。
残したいもの以外を削っていく。
その瞬間。
「あれ?」
と思ったんです。
なんだか急に、点と点が繋がった感じがしました。
彫刻をするとき、最初は山から大理石を切って持って来なければならない。その時大理石は「私は選ばれた」と思うけれども、彫刻家は彫刻の形だけを残してその他は全部裂く。
2026年5月10日「善悪分立」より
静かに待機中
仕事では相変わらず、目の前の問題対応が続きます。
上司は火消し。
「これ、来月も同じところから煙が出そう」と思いました。
見えている景色が違う。
だから結構言いたかった。
「だから今こうした方がいいんじゃないかな」って。
でも言わなかったです。
我慢する代わりに、祈りました。
少し熱を冷ましたくて。
あれこれ構想は持ちながらも、直近にできる案だけ出しました。
返ってきたのは、やっぱりその話だけ。
「まあ、そうだよな」
年間構想は、心の中で静かに待機中。
少し悔しかったです。
正直言うと。
でも、そのあと。
ぽかん。
勝った感じでもない。
負けた感じでもない。
肩のどこかに入っていた力が、勝手に席を立った感じ。
少し空気が通った。
削られていたもの
あとから気づいたことがあります。
自分はどこかで、
「変わらないなら意味がない」
と思ってました。
相手のことだけじゃない。
仕事でも、人間関係でも、未来のことでも。
この前提って、案外いろんなところにいる気がする。
知らないうちに、自分の中にもいた。
だから力が入っていたのかもしれません。
正しくあろうとしていたし、全部動かそうとしていた。
以前なら、「悪い部分を切らなきゃ」と思っていたと思います。
でも最近は少し違う。
削られていたのは、不満とか弱さじゃなくて。
反射で戦うこと。
全部を一気に変えようとすること。
自分だけで押し切ろうとすること。
そういう固まりの方だったのかもしれません。
風が通った日
最近、自分の変化は「成長」というより、「彫刻」に近い気がします。
無理に別人になるんじゃなくて、
固まっていたものが、少しずつ削がれていく感じ。
前は、削られるって
どこか壊されることだと思ってました。
でも今は少し違う。
削られているのに、なぜか前より呼吸がしやすい。
まだ何が出てくるのかは分からない。
でも最近、削られることが前ほど怖くない。
もしかしたら彫刻って、何かを失うことじゃなくて。
埋もれていた形が出てくることなのかもしれない。
そしてあの日の作品のタイトルを思い出しました。
『風立ちぬ』
あとから知りました。
「風立ちぬ、いざ生きめやも」
もともとはフランスの詩から来ている言葉で、
「風が立った。さあ、生きようではないか」
という意味で使われることが多いということを。
もちろん、作者がどこまでその意味を重ねていたのかは分かりません。
でもなぜか、自分の中では少し繋がったんです。
最近起きていたことって、何かを頑張って足した話ではなくて。
固まっていたものが削がれて、少し空気が通った話だったと。
少し視界が広がったこと。
少し呼吸しやすくなったこと。
少し力が抜けたこと。
大きく何かが変わったわけじゃない。
でも、もしかしたらこういう小さな瞬間から風って立つのかもしれない。
たしかに最近、自分の中にも少し風が通った気がしています。
彫刻家が彫刻するとき、彫刻しようとする形だけを残して、他はすべて削って裂くように、神様は御心でないことをすべて裂く。
2026年5月10日「善悪分立」より
